ボラの群れを、ずいぶん長いこと眺めていた。
「さて」
ようやく立ち上がる。
海を見る。
ボラはまだいる。
さっきより少し離れたところを、ゆっくり泳いでいた。
「そろそろ帰るか」
今日は十分歩いた。
猫にも会った。
港まで猫を連れてきた。
いや、連れてきたつもりはない。
漁師と話をした。
ボラも見た。
「…………」
散歩としては、ずいぶん盛りだくさんだった気がする。
来た道を戻る。
岸壁を歩いていくと、少し先に漁師の船が見えてきた。
まだ作業をしている。
「まだやってるんですか〜?」
声をかけると、漁師が顔を上げた。
「おう」
「ボラ、いましたよ」
「いただろ?」
「すごかったですよ。結構な数いました」
「そうか」
「ずっと見ちゃいました」
「暇だな、お前も」
「散歩ですから」
「またそれか」
「便利なんですよ、この言葉」
漁師が笑った。
「じゃあ、そろそろ帰りますね」
「おう」
片手を上げる。
そのまま歩き出そうとした。
「そうだ」
「はい?」
振り返る。
漁師が船の中を覗いている。
「これ、持っていくか〜?」
「…………」
その言葉には聞き覚えがあった。
漁師の手には魚。
「…………」
一瞬、あの日の光景が頭に浮かんだ。
魚の入った袋。
クーラーなし。
近くの店まで歩いて。
発泡スチロールのクーラーを買って。
氷を買って。
魚を入れて。
帰り道で脚に当たる発泡クーラー。
ぽこん。
ぽこん。
「…………」
「どうした?」
さらに思い出す。
クーラー代。
氷代。
そして最後に考えたこと。
……魚を買ったほうが安かったんじゃ……。
「…………」
漁師が魚を持ったまま、こちらを見ている。
「いらねえのか?」
「いや……」
魚を見る。
うまそうだ。
たぶん、新鮮だ。
いや、間違いなく新鮮だ。
「…………」
少し心が揺れる。
「持ってけよ」
「いやいやいや」
首を振った。
「今日は遠慮します」
「なんでだ?」
「クーラー持ってませんから」
「また買えばいいじゃねえか」
「買いませんよ!」
思わず声が大きくなった。
漁師が笑う。
「この前、発泡クーラーと氷を買ったんですよ」
「知ってる」
「魚を買ったほうが安かったかもしれないんですから」
「うまかったんだろ?」
「うまかったですよ」
「じゃあいいじゃねえか」
「そういう問題じゃ……」
途中まで言って、止まる。
「…………」
前にも似たようなことを言った気がする。
漁師はまだ魚を持っている。
「本当にいらねえのか?」
「…………」
もう一度、魚を見る。
「…………」
うまそうだ。
「いや!」
魚から目をそらした。
「今日は遠慮します」
「そうか」
「はい」
「じゃあ仕方ねえな」
漁師はあっさり魚を引っ込めた。
「…………」
少しだけ惜しい。
いや。
これでいい。
今日は散歩なのだ。
「じゃあ、帰ります」
「おう」
今度こそ歩き出す。
右手には何もない。
左手にも何もない。
もちろん発泡クーラーもない。
「これだよ」
なんとなく満足する。
「これが普通の散歩だよ」
身軽だ。
歩きやすい。
脚に発泡クーラーも当たらない。
ぽこん。
ぽこん。
という音もしない。
「…………」
少し歩く。
さっきの魚が頭に浮かぶ。
「…………」
うまそうだったな。
さらに歩く。
「…………」
でも、クーラーがない。
仕方ない。
今日はこれでいい。
「…………」
足が止まった。
振り返る。
漁師の船が遠くに見える。
「…………」
まだ間に合うか?
そんなことを考えている自分に気づいた。
「いやいやいや」
首を振る。
「今日は遠慮しますって言っただろ」
誰に言っているのか、自分でも分からない。
また歩き出す。
今度は振り返らない。
たぶん。
春の風が吹いていた。
今日は何も持って帰らない。
それでいい。
そう思いながら歩いていく。
「…………」
やっぱり、ちょっと惜しかった。
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