第9話 「今日は遠慮します」    
 
 ボラの群れを、ずいぶん長いこと眺めていた。

  「さて」

 ようやく立ち上がる。

 海を見る。

 ボラはまだいる。

 さっきより少し離れたところを、ゆっくり泳いでいた。

  「そろそろ帰るか」

 今日は十分歩いた。

 猫にも会った。

 港まで猫を連れてきた。

 いや、連れてきたつもりはない。

 漁師と話をした。

 ボラも見た。

  「…………」

 散歩としては、ずいぶん盛りだくさんだった気がする。

 来た道を戻る。

 岸壁を歩いていくと、少し先に漁師の船が見えてきた。

 まだ作業をしている。

  「まだやってるんですか〜?」

 声をかけると、漁師が顔を上げた。

  「おう」

  「ボラ、いましたよ」

  「いただろ?」

  「すごかったですよ。結構な数いました」

  「そうか」

  「ずっと見ちゃいました」

  「暇だな、お前も」

  「散歩ですから」

  「またそれか」

  「便利なんですよ、この言葉」

 漁師が笑った。

  「じゃあ、そろそろ帰りますね」

  「おう」

 片手を上げる。

 そのまま歩き出そうとした。

  「そうだ」

  「はい?」

 振り返る。

 漁師が船の中を覗いている。

  「これ、持っていくか〜?」

  「…………」

 その言葉には聞き覚えがあった。

 漁師の手には魚。

  「…………」

 一瞬、あの日の光景が頭に浮かんだ。

 魚の入った袋。

 クーラーなし。

 近くの店まで歩いて。

 発泡スチロールのクーラーを買って。

 氷を買って。

 魚を入れて。

 帰り道で脚に当たる発泡クーラー。

 ぽこん。

 ぽこん。

  「…………」

  「どうした?」

 さらに思い出す。

 クーラー代。

 氷代。

 そして最後に考えたこと。

 ……魚を買ったほうが安かったんじゃ……。

  「…………」

 漁師が魚を持ったまま、こちらを見ている。

  「いらねえのか?」

  「いや……」

 魚を見る。

 うまそうだ。

 たぶん、新鮮だ。

 いや、間違いなく新鮮だ。

  「…………」

 少し心が揺れる。

  「持ってけよ」

  「いやいやいや」

 首を振った。

  「今日は遠慮します」

  「なんでだ?」

  「クーラー持ってませんから」

  「また買えばいいじゃねえか」

  「買いませんよ!」

 思わず声が大きくなった。

 漁師が笑う。

  「この前、発泡クーラーと氷を買ったんですよ」

  「知ってる」

  「魚を買ったほうが安かったかもしれないんですから」

  「うまかったんだろ?」

  「うまかったですよ」

  「じゃあいいじゃねえか」

  「そういう問題じゃ……」

 途中まで言って、止まる。

  「…………」

 前にも似たようなことを言った気がする。

 漁師はまだ魚を持っている。

  「本当にいらねえのか?」

  「…………」

 もう一度、魚を見る。

  「…………」

 うまそうだ。

  「いや!」

 魚から目をそらした。

  「今日は遠慮します」

  「そうか」

  「はい」

  「じゃあ仕方ねえな」

 漁師はあっさり魚を引っ込めた。

  「…………」

 少しだけ惜しい。

 いや。

 これでいい。

 今日は散歩なのだ。

  「じゃあ、帰ります」

  「おう」

 今度こそ歩き出す。

 右手には何もない。

 左手にも何もない。

 もちろん発泡クーラーもない。

  「これだよ」

 なんとなく満足する。

  「これが普通の散歩だよ」

 身軽だ。

 歩きやすい。

 脚に発泡クーラーも当たらない。

 ぽこん。

 ぽこん。

 という音もしない。

  「…………」

 少し歩く。

 さっきの魚が頭に浮かぶ。

  「…………」

 うまそうだったな。

 さらに歩く。

  「…………」

 でも、クーラーがない。

 仕方ない。

 今日はこれでいい。

  「…………」

 足が止まった。

 振り返る。

 漁師の船が遠くに見える。

  「…………」

 まだ間に合うか?

 そんなことを考えている自分に気づいた。

  「いやいやいや」

 首を振る。

  「今日は遠慮しますって言っただろ」

 誰に言っているのか、自分でも分からない。

 また歩き出す。

 今度は振り返らない。

 たぶん。

 春の風が吹いていた。

 今日は何も持って帰らない。

 それでいい。

 そう思いながら歩いていく。

  「…………」

 やっぱり、ちょっと惜しかった。





戻る