第8話 「ボラの群れ」    
 
 漁師に教えられた方向へ、港の岸壁を歩いていく。

  「あっち、って言ってたよな〜」

 もう一度、振り返る。

 漁師の船は少し遠くなっていた。

 さっき指さしていた方向は、たぶんこちらで合っている。

  「いっぱいいるって、どのくらいだろ」

 別にボラを釣りたいわけではない。

 今日は釣り竿も持っていない。

 ただ、たくさん集まっていると聞いたから、見てみたくなった。

 それだけだ。

 岸壁を歩きながら、ときどき海を覗く。

 小さな魚がいる。

 海藻の近くを、何匹かまとまって泳いでいた。

  「これは違うな」

 また歩く。

 少し先で立ち止まる。

 水面を見る。

  「…………」

 いない。

  「本当にいるのかな〜」

 さらに歩いていく。

 港の奥へ進むにつれて、海面の様子が少し変わってきた。

 風はさっきより弱い。

 水面も穏やかだ。

 岸壁の壁には、潮が引いた跡が残っている。

 まだ潮位は低い。

  「…………」

 ふと足を止めた。

 海面に、小さな波紋が広がった。

  「ん?」

 しばらく見る。

 またひとつ。

 少し離れたところにも。

 ぽつん。

 ぽつん。

  「いるな」

 岸壁の縁へ近づいた。

 水面を覗き込む。

  「お〜!」

 いた。

 一匹や二匹ではない。

 何十匹いるのか分からない。

 大きなボラが、ゆっくりと群れになって泳いでいる。

  「本当にいっぱいいるじゃん」

 漁師の言ったとおりだった。

 ボラの群れは、港の奥の一角を行ったり来たりしている。

 同じ場所にとどまっているように見えて、少しずつ動いている。

  「…………」

 しばらく眺める。

 右へ。

 そして左へ。

 また右へ。

  「なんでここなんだろ?」

 何気なく周りを見る。

 風。

 岸壁。

 水面。

 潮の動き。

 少し離れたところでは、水面の細かなゴミがゆっくりと流れている。

  「…………」

 その流れを目で追う。

 こちらへ流れてきて。

 少し曲がって。

 ボラの群れがいるあたりで、動きが緩くなっている。

  「なるほど」

 もう一度、ボラを見る。

 群れの何匹かが水面近くまで上がってきた。

 口を開けるような動きをして、また沈んでいく。

  「何か食ってるのかな?」

 今度は水面を見る。

 何があるのかは、よく分からない。

 けれど魚がそこにいるということは、そこにいる理由がある。

 水温なのか。

 流れなのか。

 エサなのか。

 それとも、ほかの何かなのか。

  「…………」

 別に答えを出す必要はない。

 今日は釣りをするわけではないのだから。

 それでも、気になる。

 魚がいれば見る。

 見ているうちに、なぜそこにいるのか考える。

 昔から、そうだった。

 しばらくすると、群れが動き始めた。

  「あっ」

 ゆっくりと岸壁から離れていく。

 少し沖へ出て。

 また向きを変える。

  「そっち行くのか」

 数歩歩いて追いかける。

 ボラが止まる。

 こちらも止まる。

 また動く。

 こちらも歩く。

  「…………」

 ふと気がついた。

  「俺、何やってんだ?」

 魚を釣っているわけでもない。

 エサをやっているわけでもない。

 ただ、ボラの群れについて歩いている。

  「まあ、いいか」

 また出た。

 最近、この言葉も増えた気がする。

 岸壁に腰を下ろした。

 目の前を、ボラの群れがゆっくり通り過ぎていく。

 大きな魚体が陽射しを受けて、一瞬だけ銀色に光った。

  「でかいな〜」

 こうして近くで見ると、なかなか立派な魚だ。

 釣りをしているときなら、

 どうやったら釣れるだろう。

 何を食っているんだろう。

 どこへ仕掛けを入れよう。

 そんなことを考えるのかもしれない。

 でも今日は、竿がない。

 仕掛けもない。

 エサもない。

 だから、ただ見る。

  「…………」

 それも悪くなかった。

 魚が泳いでいる。

 潮が動いている。

 風が吹いている。

 それを眺めているだけなのに、気がつけばずいぶん時間が経っていた。

  「散歩だったんだけどな〜」

 そう言いながら、立ち上がろうとはしない。

 ボラの群れが、またゆっくり戻ってきた。

  「おかえり」

 もちろん、ボラは答えない。

 そのまま目の前を通り過ぎていく。

 春の海は穏やかだった。

 何も釣っていない。

 何も持ち帰らない。

 それでも今日は、なんとなく海を楽しんだ気がした。





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