第7話 「港の立ち話」    
 
 猫が消えていった港の出口を、しばらく眺めていた。

  「…………」

 戻ってくる気配はない。

  「本当に帰ったな」

 船の上から漁師が言った。

  「帰りましたね〜」

  「魚くわえて」

  「魚くわえて」

  「ははは」

  「笑わないでくださいよ」

 もう一度、港の出口を見る。

 やっぱりいない。

  「まあ、いいか」

  「何が?」

  「こっちの話です」

 このところ、この言葉をよく使っている気がする。

 漁師は船の上で片づけを続けていた。

 ロープをまとめたり、箱を動かしたり。

 何をしているのか、よく分からない作業もある。

  「今日は何が獲れたんです?」

  「ん?」

 漁師が手を止めた。

  「魚ですよ」

  「魚なら、さっき猫にやったぞ」

  「いや、あれ一匹じゃないでしょ」

  「まあな」

  「何が獲れたんです?」

  「いろいろ」

  「ずいぶん大ざっぱですね」

  「魚はいろいろいるからな」

  「そりゃそうですけど」

 漁師が笑った。

 船の中を覗いてみる。

 魚の入った箱がいくつか置いてある。

 銀色の魚。

 黒っぽい魚。

 見慣れたものもあれば、少し分かりにくいものもある。

  「結構ありますね」

  「今日はまだマシだな」

  「へえ〜」

 岸壁の縁から海を見る。

 いつもより、ずいぶん水面が低い。

 岸壁の壁には、濡れて色の変わった部分がくっきり残っていた。

  「かなり潮、引いてますね」

  「今が底に近いんじゃねえか」

  「なるほど」

  「こういう日は面倒なんだよ」

  「何がです?」

 漁師が船の中を指さした。

  「あれ上げるのが」

 見ると、大きな魚カゴが置いてある。

  「ああ〜」

  「潮が高けりゃ、もうちょっと楽なんだけどな」

 船と岸壁を見比べる。

 なるほど。

 潮が引いているぶん、船はいつもよりずっと低い位置にいる。

 そこから重い魚カゴを岸壁まで上げなければならない。

  「これ、結構な高さありますね」

  「だから大変なんだよ」

  「重そうだし」

  「重いぞ〜」

  「腰やりそうですね」

  「若くねえからな」

  「僕に言ってます?」

  「お前じゃねえよ」

  「よかった」

  「お前も若くねえけどな」

  「…………」

 漁師が笑った。

  「余計なひと言が多いんですよ」

  「ははは」

 海から風が吹いてきた。

 さっきまで穏やかだった水面に、細かな波が立つ。

  「ちょっと風、出てきましたね」

  「午後はもう少し吹くかもな」

  「そうなんですか?」

  「たぶん」

  「たぶんですか」

  「海のことなんか、全部分かったら苦労しねえよ」

  「それもそうですね」

 少し離れた海面を見る。

 風の当たっている場所と、そうでない場所。

 水面の色が、わずかに違って見える。

 沖には細い筋のようなものも見えた。

  「あそこ、潮目できてますね」

  「ああ」

  「何かいそうだな〜」

  「すぐ魚のこと考えるな、お前は」

  「釣り人ですからね」

 言ってから、少しだけ間が空いた。

  「…………」

 漁師がこちらを見る。

  「散歩じゃなかったのか?」

  「今日は散歩です」

  「釣り人なんだろ?」

  「散歩している釣り人です」

  「ややこしいな」

  「自分でもそう思います」

 二人で笑った。

 船が、ゆっくりと上下している。

 岸壁に当たる波の音。

 ロープが擦れる音。

 遠くから聞こえる鳥の声。

 別に何か大事な話をしているわけではない。

 魚のこと。

 潮のこと。

 風のこと。

 そんな話をしているだけだ。

 それでも、海のそばにいると話題には困らない。

  「そういや」

 漁師が海のほうを見ながら言った。

  「なんです?」

  「あっちにボラがやたら集まってたぞ〜」

  「ボラ?」

  「ああ」

 漁師が港の奥のほうを指さした。

  「どのへんです?」

  「あっち」

  「…………」

 指の先を見る。

  「あっちって、どこですか?」

  「あっちはあっちだよ」

  「広すぎますよ」

  「歩いてきゃ分かる」

  「本当ですか〜?」

  「いっぱいいるから分かるって」

  「へえ〜」

 もう一度、指さされた方向を見る。

 ここからでは、それらしいものは見えない。

  「…………」

 別にボラを釣るつもりはない。

 そもそも今日は竿も持っていない。

 ただの散歩だ。

  「…………」

 でも。

 たくさんいると言われると、ちょっと見てみたい。

  「ちょっと見てきます」

  「やっぱり行くのか」

  「散歩ですから」

  「便利だな、その言葉」

  「便利ですよ〜」

 漁師に片手を上げて、港の奥へ向かって歩き出した。

 数歩進んでから振り返る。

  「本当にいっぱいいるんですよね?」

  「行きゃ分かるって!」

  「いなかったら戻ってきますからね〜」

  「戻ってくんな!」

  「なんでですか!」

 漁師の笑い声が聞こえた。

 また前を向く。

 港の奥へ続く岸壁を、ゆっくり歩いていく。

 ボラを釣るわけではない。

 何か特別なものがあるわけでもない。

 ただ、ちょっと見てみたい。

 それだけだった。





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