猫が消えていった港の出口を、しばらく眺めていた。
「…………」
戻ってくる気配はない。
「本当に帰ったな」
船の上から漁師が言った。
「帰りましたね〜」
「魚くわえて」
「魚くわえて」
「ははは」
「笑わないでくださいよ」
もう一度、港の出口を見る。
やっぱりいない。
「まあ、いいか」
「何が?」
「こっちの話です」
このところ、この言葉をよく使っている気がする。
漁師は船の上で片づけを続けていた。
ロープをまとめたり、箱を動かしたり。
何をしているのか、よく分からない作業もある。
「今日は何が獲れたんです?」
「ん?」
漁師が手を止めた。
「魚ですよ」
「魚なら、さっき猫にやったぞ」
「いや、あれ一匹じゃないでしょ」
「まあな」
「何が獲れたんです?」
「いろいろ」
「ずいぶん大ざっぱですね」
「魚はいろいろいるからな」
「そりゃそうですけど」
漁師が笑った。
船の中を覗いてみる。
魚の入った箱がいくつか置いてある。
銀色の魚。
黒っぽい魚。
見慣れたものもあれば、少し分かりにくいものもある。
「結構ありますね」
「今日はまだマシだな」
「へえ〜」
岸壁の縁から海を見る。
いつもより、ずいぶん水面が低い。
岸壁の壁には、濡れて色の変わった部分がくっきり残っていた。
「かなり潮、引いてますね」
「今が底に近いんじゃねえか」
「なるほど」
「こういう日は面倒なんだよ」
「何がです?」
漁師が船の中を指さした。
「あれ上げるのが」
見ると、大きな魚カゴが置いてある。
「ああ〜」
「潮が高けりゃ、もうちょっと楽なんだけどな」
船と岸壁を見比べる。
なるほど。
潮が引いているぶん、船はいつもよりずっと低い位置にいる。
そこから重い魚カゴを岸壁まで上げなければならない。
「これ、結構な高さありますね」
「だから大変なんだよ」
「重そうだし」
「重いぞ〜」
「腰やりそうですね」
「若くねえからな」
「僕に言ってます?」
「お前じゃねえよ」
「よかった」
「お前も若くねえけどな」
「…………」
漁師が笑った。
「余計なひと言が多いんですよ」
「ははは」
海から風が吹いてきた。
さっきまで穏やかだった水面に、細かな波が立つ。
「ちょっと風、出てきましたね」
「午後はもう少し吹くかもな」
「そうなんですか?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「海のことなんか、全部分かったら苦労しねえよ」
「それもそうですね」
少し離れた海面を見る。
風の当たっている場所と、そうでない場所。
水面の色が、わずかに違って見える。
沖には細い筋のようなものも見えた。
「あそこ、潮目できてますね」
「ああ」
「何かいそうだな〜」
「すぐ魚のこと考えるな、お前は」
「釣り人ですからね」
言ってから、少しだけ間が空いた。
「…………」
漁師がこちらを見る。
「散歩じゃなかったのか?」
「今日は散歩です」
「釣り人なんだろ?」
「散歩している釣り人です」
「ややこしいな」
「自分でもそう思います」
二人で笑った。
船が、ゆっくりと上下している。
岸壁に当たる波の音。
ロープが擦れる音。
遠くから聞こえる鳥の声。
別に何か大事な話をしているわけではない。
魚のこと。
潮のこと。
風のこと。
そんな話をしているだけだ。
それでも、海のそばにいると話題には困らない。
「そういや」
漁師が海のほうを見ながら言った。
「なんです?」
「あっちにボラがやたら集まってたぞ〜」
「ボラ?」
「ああ」
漁師が港の奥のほうを指さした。
「どのへんです?」
「あっち」
「…………」
指の先を見る。
「あっちって、どこですか?」
「あっちはあっちだよ」
「広すぎますよ」
「歩いてきゃ分かる」
「本当ですか〜?」
「いっぱいいるから分かるって」
「へえ〜」
もう一度、指さされた方向を見る。
ここからでは、それらしいものは見えない。
「…………」
別にボラを釣るつもりはない。
そもそも今日は竿も持っていない。
ただの散歩だ。
「…………」
でも。
たくさんいると言われると、ちょっと見てみたい。
「ちょっと見てきます」
「やっぱり行くのか」
「散歩ですから」
「便利だな、その言葉」
「便利ですよ〜」
漁師に片手を上げて、港の奥へ向かって歩き出した。
数歩進んでから振り返る。
「本当にいっぱいいるんですよね?」
「行きゃ分かるって!」
「いなかったら戻ってきますからね〜」
「戻ってくんな!」
「なんでですか!」
漁師の笑い声が聞こえた。
また前を向く。
港の奥へ続く岸壁を、ゆっくり歩いていく。
ボラを釣るわけではない。
何か特別なものがあるわけでもない。
ただ、ちょっと見てみたい。
それだけだった。
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