猫はまだ足元にいた。
すりすり。
右へ回って。
また左へ回る。
「ずいぶん気に入られたな」
船の上から漁師が言った。
「そうなんですかね〜」
しゃがんで猫の頭を撫でる。
ごろごろごろ。
「昨日会ったばっかりなんですけどね」
「猫なんてそんなもんだろ」
「そんなもんですか?」
「知らねえけど」
「知らないんじゃないですか」
漁師が笑った。
猫はそんな会話には興味がないらしい。
今度は岸壁のほうへ歩いていくと、船の中を覗き込むように首を伸ばした。
「おいおい、危ないぞ」
声をかけると、猫がこちらを見る。
「にゃあ」
「落ちるなよ〜」
「そいつ、魚が欲しいんじゃねえか?」
漁師が言った。
「魚?」
「ちょっと待ってろ」
船の中で何かを探し始めた。
「いやいや、別にいいですよ」
「あったあった」
漁師が手にしていたのは、小さな魚だった。
「じゃあ猫にこれやるよ〜」
「え?」
「ほれ」
小魚をこちらへ放る。
ぽいっ。
「いや、自分の猫じゃ……」
言い終わるより早かった。
足元にいた猫が飛び出した。
「おっ!」
小魚が岸壁へ落ちる。
その瞬間。
ぱくっ。
「…………」
猫は見事に魚をくわえていた。
「早っ」
「ははは」
漁師が笑う。
「お前、さっきまであんなに俺にすりすりしてたじゃないか」
猫はこちらを見た。
口には魚をくわえている。
「…………」
「…………」
ほんの一瞬、目が合った。
そして猫は、くるりと向きを変えた。
「あれ?」
歩いていく。
「お〜い」
止まらない。
魚をくわえたまま、港の出口へ向かっていく。
「おいおい」
さっきまで足元から離れなかった猫とは思えない。
迷いがない。
振り返りもしない。
「帰るのか?」
もちろん答えない。
猫はそのまま港を出ていった。
「…………」
姿が見えなくなった。
「…………」
しばらく港の出口を見る。
漁師が船の上から言った。
「帰ったな」
「帰りましたね」
「魚もらったら用済みか」
「…………」
その言葉が、妙に引っかかった。
「ちょっと待ってください」
「なんだ?」
「昨日ですよ」
「昨日?」
「昨日、あいつと道で会ったんですよ」
「ああ」
「ずっと遊んでたから、結局ここまで来られなかったんです」
「そう言ってたな」
「それで今日は、構わずに歩いてきたんですよ」
「うん」
「そしたら、あいつが後ろからついてきた」
「そうだな」
「ここまで」
「そうだな」
「…………」
港の出口を見る。
猫はもういない。
「で、魚をもらったら帰った」
「帰ったな」
「…………」
少し考える。
「ひょっとして……」
「なんだ?」
「あいつ、港に来たかっただけなんじゃ……」
「かもな」
「…………」
昨日の猫を思い出す。
すりすり。
ごろごろ。
にゃあ。
そして今日。
後ろをついてきて。
港へ到着。
魚をもらう。
帰る。
「…………」
なんとなく話がつながってしまった。
「じゃあ俺……」
漁師を見る。
「港までの案内係だったの?」
「ははははは!」
漁師が大きな声で笑った。
「笑わないでくださいよ〜」
「いいじゃねえか。役に立ったんだから」
「猫の?」
「猫の」
「…………」
もう一度、港の出口を見る。
もちろん猫の姿はない。
「せめて一回くらい振り返れよな〜」
春の風が、港の中を通り抜けていった。
船がゆっくり揺れている。
海面では、小さな波がきらきらと光っていた。
「まあ、いいか」
「何が?」
「こっちの話です」
昨日は、猫のせいで海まで来られなかった。
今日は、猫を連れて海まで来た。
そして猫だけ先に帰った。
「…………」
散歩というのも、なかなか思いどおりにはいかないものらしい。
港の出口をもう一度見てから、少し笑った。
|
|