翌日。
今日も空はよく晴れていた。
春の陽射しが、昨日より少しだけ暖かく感じる。
「さて」
玄関を出る。
今日も散歩だ。
ただし、今日はひとつだけ決めていることがある。
「今日はちゃんと港まで行くぞ」
昨日は、途中で猫につかまった。
いや。
別に、つかまったわけではない。
勝手に立ち止まって、勝手に遊んでいただけだ。
「…………」
思い返してみる。
猫がいた。
撫でた。
歩き出した。
鳴かれた。
戻った。
また撫でた。
それを何度か繰り返しているうちに、結局、海までたどり着かなかった。
「今日は行くからな」
まだ猫にも会っていないのに、先に宣言しておく。
住宅地を抜ける。
いつもの道を歩く。
道端の小さな花。
庭先から聞こえる鳥の声。
穏やかな春の風。
のんびり歩いていると、昨日の場所が近づいてきた。
「…………」
少しだけ歩く速度が落ちる。
道路脇の塀を見る。
いない。
「なんだ」
ちょっとだけ拍子抜けした。
別に会いたかったわけではない。
今日は港まで行くのだから、いないほうが都合がいい。
「よし」
そのまま歩く。
「にゃあ」
「…………」
足が止まった。
振り返る。
いた。
昨日の猫だ。
「お前、いたのか」
「にゃあ」
猫が近づいてくる。
そして昨日と同じように、脚へ身体をこすりつけた。
「おいおい」
すりすり。
「今日はダメだぞ」
すりすり。
「昨日、お前と遊んでたら海まで行けなかったんだからな」
「にゃあ」
「今日は港まで行くぞ」
猫はもちろん答えない。
しゃがもうとして……。
「…………」
やめた。
「ダメだ」
昨日はここから始まったのだ。
一度しゃがんだら最後。
頭を撫でて。
喉をごろごろ鳴らされて。
立ち上がったら鳴かれて。
また戻る。
今日は、その手には乗らない。
「じゃあな」
猫に向かって片手を上げる。
そして歩き出した。
「にゃあ」
「…………」
聞こえないふりをする。
そのまま歩く。
「にゃあ」
「今日は行くぞ〜」
振り返らずに言った。
しばらく歩くと、潮の匂いがしてきた。
「お〜」
昨日は嗅ぐことのできなかった匂いだ。
建物の間から海が見える。
春の陽射しを受けて、水面がきらきら光っていた。
「やっぱり海はいいな〜」
そのまま港へ向かう。
岸壁へ出ると、何隻かの船が係留されていた。
風に揺られた船が、岸壁に当たって小さな音を立てている。
少し離れたところに、見覚えのある姿があった。
「こんにちは〜」
「おう」
漁師だった。
船の上で何か作業をしている。
「今日はちゃんと散歩か?」
「ちゃんと散歩ですよ」
「竿は?」
「ありません」
「クーラーは?」
「ありません」
「それは?」
漁師が胸元を見る。
「…………」
フローティングジャケットを見下ろした。
「これはいいんです」
「何がいいんだよ」
「もう、これは散歩の一部です」
「意味分かんねえな」
「僕もよく分かりません」
漁師が笑った。
「でも今日は、ちゃんと港まで来ましたからね」
「なんだ。昨日は来なかったのか?」
「途中でちょっと……」
「何してたんだ?」
「猫と遊んでました」
「猫?」
「道の途中に、人懐っこいのがいたんですよ」
「ふ〜ん」
漁師は大して興味もなさそうに答えた。
「気がついたら結構時間が経っちゃって。結局、昨日はそこから帰りました」
「何しに出てきたんだよ」
「だから散歩ですって」
「そうだったな」
漁師はまた船の作業へ戻った。
「…………」
海を見る。
今日はちゃんと、ここまで来た。
目的があるわけではない。
釣りをするわけでもない。
それでも、昨日来られなかったぶん、なんとなく満足感がある。
「今日は猫に勝ったな」
「何の勝負だよ」
「こっちの話です」
そのとき。
漁師がふと顔を上げた。
こちらを見る。
そして、少し視線を下げた。
「なんだ?」
「え?」
「今日は猫と散歩か〜?」
「…………?」
一瞬、意味が分からなかった。
「猫?」
「いるぞ」
「え?」
振り返る。
「…………」
いた。
少し離れたところに、昨日の猫が座っている。
「…………」
猫はこちらを見ている。
「にゃあ」
「お前……」
いつから?
そう思って、来た道を見る。
もちろん答えは分からない。
あの場所からずっとついてきたのだろうか。
それとも途中からなのか。
「今日は構わなかっただろ〜?」
「にゃあ」
「なんで来るんだよ」
猫が立ち上がった。
こちらへ歩いてくる。
「おい」
足元まで来る。
そして……。
すりすり。
「…………」
漁師が笑った。
「懐かれてんじゃねえか」
「昨日会ったばっかりですよ」
「じゃあ気に入られたんだろ」
「魚臭いのかな〜?」
「知らねえよ」
猫はそんな会話など気にもせず、脚の周りをぐるりと回っている。
「お前なあ……」
しゃがんで頭を撫でる。
ごろごろごろ。
「…………」
結局、撫でてしまった。
「今日は港まで来られたのにな〜」
猫は目を細めている。
漁師は船の上から、その様子を眺めていた。
「まあ、いいじゃねえか」
「何がです?」
「散歩仲間ができて」
「…………」
猫を見る。
猫もこちらを見る。
「にゃあ」
「……勝手についてきただけですよ」
春の港に、猫の声が小さく響いた。
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