第4話 「あの猫」    
 
 今日も海へ向かって歩いていた。

 散歩である。

 少なくとも本人は、そう思っている。

 このところ、散歩へ出ると海へ向かうことが多くなった。

 別に毎回、海へ行こうと決めて家を出るわけではない。

 歩き始めて、角を曲がって。

 気になるものがあれば立ち止まって。

 そのままなんとなく歩いていると、いつの間にか海へ向かう道にいる。

 今日もそうだった。

 春の陽射しは暖かい。

 風も穏やかだった。

 住宅地を抜けると、道沿いの家の庭から花の匂いが漂ってきた。

 少し先では、スズメが何羽か地面をつついている。

 近づくと、一斉に飛び立った。

  「逃げなくてもいいのにな〜」

 もちろん、スズメは答えない。

 そのまま歩く。

 海までは、もうそれほど遠くない。

 あと少し歩けば、潮の匂いがしてくるはずだ。

 そのときだった。

  「にゃあ」

  「ん?」

 足を止めた。

 声のしたほうを見る。

 道路脇の塀の上に、一匹の猫が座っていた。

  「お〜」

 猫はこちらを見ている。

 こちらも猫を見る。

  「…………」

  「…………」

 しばらく見つめ合う。

  「なんだ?」

  「にゃあ」

  「そうか」

 何が「そうか」なのかは、自分でも分からない。

 歩き出すと、猫は塀から軽く飛び降りた。

 そして、こちらへ歩いてくる。

  「お?」

 猫は足元まで来ると、何のためらいもなく脚に身体をこすりつけた。

  「おいおい」

 右足に、すりすり。

 今度は左足。

 尻尾を立てたまま、脚の周りをぐるりと回る。

  「ずいぶん人懐っこいな〜」

 しゃがんで手を出してみる。

 猫は逃げない。

 それどころか、自分から頭を押しつけてきた。

  「よしよし」

 頭を撫でる。

 猫は目を細めた。

  「…………」

 もう一度撫でる。

 ごろごろ。

  「お〜、鳴ってる鳴ってる」

 さらに撫でる。

 ごろごろごろ。

  「気持ちいいのか〜?」

  「にゃあ」

  「そうかそうか」

 会話が成立しているような気がする。

 もちろん、たぶん成立していない。

 しばらく遊んでいると、ふと思った。

  「しかし、お前……」

 猫の顔を見る。

  「なんでそんなに俺に寄ってくるんだ?」

 猫は答えない。

 代わりに、また脚へ身体をこすりつけてくる。

  「…………」

 自分の服の匂いを嗅いでみた。

  「俺、そんなに魚臭いのかな〜?」

  「にゃあ」

  「えっ?」

 思わず猫を見る。

  「今の『にゃあ』は、どういう意味だ?」

 猫は何も答えず、前足を舐め始めた。

  「……否定はしてくれないんだな」

 思わず笑った。

 また猫の頭を撫でる。

 暖かい陽射し。

 穏やかな風。

 道端で猫を撫でているだけなのに、妙に居心地がいい。

  「さて」

 立ち上がる。

  「そろそろ行くか」

 猫を見る。

  「じゃあな」

 数歩歩く。

  「にゃあ」

 振り返る。

 猫がこちらを見ている。

  「…………」

 戻る。

  「なんだよ」

 もう一度しゃがむ。

 また撫でる。

 ごろごろごろ。

  「…………」

 そして、しばらくして。

  「よし。今度こそ行くぞ」

 立ち上がる。

 数歩歩く。

  「にゃあ」

  「…………」

 また振り返る。

  「お前なあ……」

 戻る。

 そんなことを何度繰り返しただろう。

 気がつけば、陽射しの向きが少し変わっていた。

  「ん?」

 スマホを取り出した。

 時刻を見る。

  「…………」

 思っていたより、ずっと時間が経っている。

  「うそだろ?」

 猫を見る。

 猫は道路脇の日なたに寝転がっていた。

 さっきまであれだけ相手をさせておいて、今はもうこちらのことなどどうでもよさそうだ。

  「お前のせいだぞ」

 猫は目を閉じている。

  「聞いてないな……」

 海へ向かう道を見る。

 ここから港まで歩いて。

 また港の中を覗いて。

 漁師さんがいたら、おそらく立ち話をして。

  「…………」

 今日は、もういいか。

 別に用事があるわけでもない。

 海へ行かなければならない理由もない。

 そもそも散歩なのだから、目的地なんてなくてもいい。

 猫を見る。

  「じゃあ、帰るわ」

 猫の耳が少しだけ動いた。

  「またな」

 今度こそ歩き出した。

 しばらく歩いてから、ふと振り返る。

 猫はまだ同じ場所で寝ている。

  「…………」

 海には、たどり着かなかった。

 でもまあ。

 こんな日があってもいい。

 春の午後。

 海とは反対の方向へ、のんびり歩いていった。





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