今日も海へ向かって歩いていた。
散歩である。
少なくとも本人は、そう思っている。
このところ、散歩へ出ると海へ向かうことが多くなった。
別に毎回、海へ行こうと決めて家を出るわけではない。
歩き始めて、角を曲がって。
気になるものがあれば立ち止まって。
そのままなんとなく歩いていると、いつの間にか海へ向かう道にいる。
今日もそうだった。
春の陽射しは暖かい。
風も穏やかだった。
住宅地を抜けると、道沿いの家の庭から花の匂いが漂ってきた。
少し先では、スズメが何羽か地面をつついている。
近づくと、一斉に飛び立った。
「逃げなくてもいいのにな〜」
もちろん、スズメは答えない。
そのまま歩く。
海までは、もうそれほど遠くない。
あと少し歩けば、潮の匂いがしてくるはずだ。
そのときだった。
「にゃあ」
「ん?」
足を止めた。
声のしたほうを見る。
道路脇の塀の上に、一匹の猫が座っていた。
「お〜」
猫はこちらを見ている。
こちらも猫を見る。
「…………」
「…………」
しばらく見つめ合う。
「なんだ?」
「にゃあ」
「そうか」
何が「そうか」なのかは、自分でも分からない。
歩き出すと、猫は塀から軽く飛び降りた。
そして、こちらへ歩いてくる。
「お?」
猫は足元まで来ると、何のためらいもなく脚に身体をこすりつけた。
「おいおい」
右足に、すりすり。
今度は左足。
尻尾を立てたまま、脚の周りをぐるりと回る。
「ずいぶん人懐っこいな〜」
しゃがんで手を出してみる。
猫は逃げない。
それどころか、自分から頭を押しつけてきた。
「よしよし」
頭を撫でる。
猫は目を細めた。
「…………」
もう一度撫でる。
ごろごろ。
「お〜、鳴ってる鳴ってる」
さらに撫でる。
ごろごろごろ。
「気持ちいいのか〜?」
「にゃあ」
「そうかそうか」
会話が成立しているような気がする。
もちろん、たぶん成立していない。
しばらく遊んでいると、ふと思った。
「しかし、お前……」
猫の顔を見る。
「なんでそんなに俺に寄ってくるんだ?」
猫は答えない。
代わりに、また脚へ身体をこすりつけてくる。
「…………」
自分の服の匂いを嗅いでみた。
「俺、そんなに魚臭いのかな〜?」
「にゃあ」
「えっ?」
思わず猫を見る。
「今の『にゃあ』は、どういう意味だ?」
猫は何も答えず、前足を舐め始めた。
「……否定はしてくれないんだな」
思わず笑った。
また猫の頭を撫でる。
暖かい陽射し。
穏やかな風。
道端で猫を撫でているだけなのに、妙に居心地がいい。
「さて」
立ち上がる。
「そろそろ行くか」
猫を見る。
「じゃあな」
数歩歩く。
「にゃあ」
振り返る。
猫がこちらを見ている。
「…………」
戻る。
「なんだよ」
もう一度しゃがむ。
また撫でる。
ごろごろごろ。
「…………」
そして、しばらくして。
「よし。今度こそ行くぞ」
立ち上がる。
数歩歩く。
「にゃあ」
「…………」
また振り返る。
「お前なあ……」
戻る。
そんなことを何度繰り返しただろう。
気がつけば、陽射しの向きが少し変わっていた。
「ん?」
スマホを取り出した。
時刻を見る。
「…………」
思っていたより、ずっと時間が経っている。
「うそだろ?」
猫を見る。
猫は道路脇の日なたに寝転がっていた。
さっきまであれだけ相手をさせておいて、今はもうこちらのことなどどうでもよさそうだ。
「お前のせいだぞ」
猫は目を閉じている。
「聞いてないな……」
海へ向かう道を見る。
ここから港まで歩いて。
また港の中を覗いて。
漁師さんがいたら、おそらく立ち話をして。
「…………」
今日は、もういいか。
別に用事があるわけでもない。
海へ行かなければならない理由もない。
そもそも散歩なのだから、目的地なんてなくてもいい。
猫を見る。
「じゃあ、帰るわ」
猫の耳が少しだけ動いた。
「またな」
今度こそ歩き出した。
しばらく歩いてから、ふと振り返る。
猫はまだ同じ場所で寝ている。
「…………」
海には、たどり着かなかった。
でもまあ。
こんな日があってもいい。
春の午後。
海とは反対の方向へ、のんびり歩いていった。
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