港の中を、船がゆっくりと進んでいく。
低いエンジン音を響かせながら岸壁へ近づくと、船の上にいた男が慣れた手つきでロープを投げた。
輪になったロープが岸壁の上に落ちる。
船から降りた男は、それを拾い上げると、岸壁の柱にくるりと巻きつけた。
「よっ」
こちらに気づいた男が、片手を上げた。
「こんにちは〜」
軽く手を上げる。
顔なじみの漁師だった。
「久しぶりだな」
「そうですね〜」
「生きてたか?」
「生きてますよ」
「そうか」
それだけ言うと、漁師はまた船のほうを向いた。
「…………」
久しぶりに会った人間に対する会話として、これでいいのだろうか。
まあ、この人は昔からこんな感じだった。
「どうです? 最近」
「何が?」
「海ですよ」
「海なら、そこにあるぞ」
「いや、そうじゃなくて……」
思わず笑った。
変わっていない。
こういうところも、昔のままだ。
漁師は船から魚の入った箱を岸壁へ上げた。
銀色の魚体が陽射しを反射している。
「お〜、いいですね」
「欲しいか?」
「いやいや。今日は散歩ですから」
右手に持っている釣り竿を見る。
漁師も釣り竿を見た。
そして、こちらを見る。
「…………」
「…………」
「散歩?」
「散歩です」
「竿持ってるぞ」
「念のためです」
「何の?」
「それは僕にも分かりません」
「変なやつだな」
「自分でもそう思います」
漁師が笑った。
しばらく二人で立ち話をした。
最近の海のこと。
魚のこと。
風のこと。
どうでもいいような話ばかりだった。
けれど、不思議とこういう話は飽きない。
「じゃあ、そろそろ帰ります」
「おう」
歩き出そうとすると、背中から声が飛んできた。
「お〜い!」
振り返る。
漁師が箱の中から魚を一匹つかんでいた。
「これ、持ってけ〜!」
「えっ?」
断る間もなく、魚が入った袋を差し出された。
「いやいやいや」
「うまいぞ」
「そうじゃなくて」
「なんだ?」
「今日は散歩なんですって」
「知ってる」
「クーラー持ってませんよ」
「知るか」
「…………」
実に無責任である。
それでも、せっかくの魚を断るのも悪い。
「じゃあ……いただきます」
「おう、持ってけ持ってけ」
「ありがとうございます」
袋を受け取った。
ずしりと重い。
ついさっきまで海を泳いでいた魚だ。
もちろん、よく冷やして持ち帰りたい。
「…………」
魚の入った袋を見る。
次に、自分の格好を見る。
釣り竿。
財布。
スマホ。
以上。
「どうすんだ、これ……」
漁師はすでに船の片づけを始めている。
助けてくれる気配はない。
仕方なく、魚の袋をぶら下げて港を歩き始めた。
途中ですれ違った観光客らしき人が、ちらりと魚を見る。
なんとなく気まずい。
「いや、釣ったんじゃないんですよ」
心の中で言い訳する。
誰も聞いていない。
港を出て、近くの店へ向かった。
買ったのは、発泡スチロールのクーラーボックス。
それから氷。
店の外で魚をクーラーに入れ、氷をたっぷりとかぶせる。
「よし」
これで安心だ。
ふたを閉めて、持ち上げる。
「…………」
右手には釣り竿。
左手には発泡クーラー。
散歩に出た人間の姿ではない。
しかも、釣りをしていないのに魚まで入っている。
「なんでこうなった……」
朝、家を出たときには、ただ歩くだけのつもりだった。
海を見て。
少し風に当たって。
それから帰る。
それだけだったはずなのに。
発泡クーラーが歩くたびに脚に当たる。
ぽこん。
ぽこん。
なんだか妙に間の抜けた音がする。
それでも、中には新鮮な魚が入っている。
今夜はこれをどうやって食べよう。
刺身がいいだろうか。
焼いてもいい。
そんなことを考えていると、発泡クーラーの重さも少し気にならなくなった。
「まあ……ありがたいよな」
春の風の中を、魚をぶら下げて歩く。
悪くない散歩だった。
ただ……。
ふと立ち止まり、さっき買った発泡クーラーを見た。
クーラー代。
氷代。
それから、わざわざ店まで歩いた手間。
頭の中で、なんとなく計算する。
「…………」
そしてクーラーの中の魚を見る。
「魚を買ったほうが安かったんじゃ……」
しばらく考えてから、首を振った。
「いやいや。そういう問題じゃない」
再び歩き出す。
数歩進む。
「…………」
また少し考える。
「……たぶん」
春の午後。
発泡クーラーを片手に、来た道をゆっくりと帰っていった。
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