第2話 「持ってけ〜!」    
 
 港の中を、船がゆっくりと進んでいく。

 低いエンジン音を響かせながら岸壁へ近づくと、船の上にいた男が慣れた手つきでロープを投げた。

 輪になったロープが岸壁の上に落ちる。

 船から降りた男は、それを拾い上げると、岸壁の柱にくるりと巻きつけた。

  「よっ」

 こちらに気づいた男が、片手を上げた。

  「こんにちは〜」

 軽く手を上げる。

 顔なじみの漁師だった。

  「久しぶりだな」

  「そうですね〜」

  「生きてたか?」

  「生きてますよ」

  「そうか」

 それだけ言うと、漁師はまた船のほうを向いた。

  「…………」

 久しぶりに会った人間に対する会話として、これでいいのだろうか。

 まあ、この人は昔からこんな感じだった。

  「どうです? 最近」

  「何が?」

  「海ですよ」

  「海なら、そこにあるぞ」

  「いや、そうじゃなくて……」

 思わず笑った。

 変わっていない。

 こういうところも、昔のままだ。

 漁師は船から魚の入った箱を岸壁へ上げた。

 銀色の魚体が陽射しを反射している。

  「お〜、いいですね」

  「欲しいか?」

  「いやいや。今日は散歩ですから」

 右手に持っている釣り竿を見る。

 漁師も釣り竿を見た。

 そして、こちらを見る。

  「…………」

  「…………」

  「散歩?」

  「散歩です」

  「竿持ってるぞ」

  「念のためです」

  「何の?」

  「それは僕にも分かりません」

  「変なやつだな」

  「自分でもそう思います」

 漁師が笑った。

 しばらく二人で立ち話をした。

 最近の海のこと。

 魚のこと。

 風のこと。

 どうでもいいような話ばかりだった。

 けれど、不思議とこういう話は飽きない。

  「じゃあ、そろそろ帰ります」

  「おう」

 歩き出そうとすると、背中から声が飛んできた。

  「お〜い!」

 振り返る。

 漁師が箱の中から魚を一匹つかんでいた。

  「これ、持ってけ〜!」

  「えっ?」

 断る間もなく、魚が入った袋を差し出された。

  「いやいやいや」

  「うまいぞ」

  「そうじゃなくて」

  「なんだ?」

  「今日は散歩なんですって」

  「知ってる」

  「クーラー持ってませんよ」

  「知るか」

  「…………」

 実に無責任である。

 それでも、せっかくの魚を断るのも悪い。

  「じゃあ……いただきます」

  「おう、持ってけ持ってけ」

  「ありがとうございます」

 袋を受け取った。

 ずしりと重い。

 ついさっきまで海を泳いでいた魚だ。

 もちろん、よく冷やして持ち帰りたい。

  「…………」

 魚の入った袋を見る。

 次に、自分の格好を見る。

 釣り竿。

 財布。

 スマホ。

 以上。

  「どうすんだ、これ……」

 漁師はすでに船の片づけを始めている。

 助けてくれる気配はない。

 仕方なく、魚の袋をぶら下げて港を歩き始めた。

 途中ですれ違った観光客らしき人が、ちらりと魚を見る。

 なんとなく気まずい。

  「いや、釣ったんじゃないんですよ」

 心の中で言い訳する。

 誰も聞いていない。

 港を出て、近くの店へ向かった。

 買ったのは、発泡スチロールのクーラーボックス。

 それから氷。

 店の外で魚をクーラーに入れ、氷をたっぷりとかぶせる。

  「よし」

 これで安心だ。

 ふたを閉めて、持ち上げる。

  「…………」

 右手には釣り竿。

 左手には発泡クーラー。

 散歩に出た人間の姿ではない。

 しかも、釣りをしていないのに魚まで入っている。

  「なんでこうなった……」

 朝、家を出たときには、ただ歩くだけのつもりだった。

 海を見て。

 少し風に当たって。

 それから帰る。

 それだけだったはずなのに。

 発泡クーラーが歩くたびに脚に当たる。

 ぽこん。

 ぽこん。

 なんだか妙に間の抜けた音がする。

 それでも、中には新鮮な魚が入っている。

 今夜はこれをどうやって食べよう。

 刺身がいいだろうか。

 焼いてもいい。

 そんなことを考えていると、発泡クーラーの重さも少し気にならなくなった。

  「まあ……ありがたいよな」

 春の風の中を、魚をぶら下げて歩く。

 悪くない散歩だった。

 ただ……。

 ふと立ち止まり、さっき買った発泡クーラーを見た。

 クーラー代。

 氷代。

 それから、わざわざ店まで歩いた手間。

 頭の中で、なんとなく計算する。

  「…………」

 そしてクーラーの中の魚を見る。

  「魚を買ったほうが安かったんじゃ……」

 しばらく考えてから、首を振った。

  「いやいや。そういう問題じゃない」

 再び歩き出す。

 数歩進む。

  「…………」

 また少し考える。

  「……たぶん」

 春の午後。

 発泡クーラーを片手に、来た道をゆっくりと帰っていった。






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