第1話 「春の海」    
 
 窓を開けると、思っていたより暖かい風が入ってきた。

 ついこの前まで、朝晩はまだ上着が手放せなかったはずなのに、
 季節というものは知らないうちに少しずつ先へ進んでいるらしい。

 カーテンがふわりと膨らんで、また戻る。

 空は青い。

 雲は少しあるけれど、雨の心配はなさそうだ。

  「……歩くか」

 誰に言うでもなく、そうつぶやいた。

 ここしばらく、休みの日になると家で過ごすことが多かった。

 別に何か理由があったわけではない。

 やらなければならないことがあったわけでもないし、体調が悪かったわけでもない。

 ただ、出かけなかった。

 それだけだ。

 けれど今日は、なんとなく外へ出たくなった。

 こんな日に家の中にいるのは、少しもったいない気がした。

 玄関でスニーカーを履き、外へ出る。

 行き先は決めていない。

 近所をぐるっと歩いて帰ってきてもいい。

 途中でコンビニに寄って、コーヒーでも買おう。

 そんな、本当にただの散歩だった。

 ……はずなのだが。

 住宅地を抜け、いつもの道を歩いているうちに、足は自然と海のほうへ向かっていた。

 遠回りになる。

 まあ、いいか。

 今日は散歩なのだから、近道をする必要もない。

 道端には、小さな花が咲いていた。

 名前は知らない。

 毎年ここに咲いていたのだろうか。

 立ち止まって少し眺めてから、また歩き出す。

 しばらくすると、風の匂いが変わった。

 まだ海は見えない。

 それでも分かる。

  「海だな」

 潮の匂い。

 遠くで鳴くカモメの声。

 建物の間を抜けてくる風にも、さっきまでとは違う湿り気がある。

 この感じは久しぶりだった。

 海へ行かなくなった理由があったわけではない。

 だから、戻ってきた理由だって必要ないのかもしれない。

 行きたくなったから行く。

 昔から、それでよかった。

 角を曲がると、ようやく海が見えた。

 春の海は、思っていたより青かった。

 冬の海に残っていた硬さが少し抜けて、陽射しを受けた水面が細かくきらきらと光っている。

  「お〜……」

 思わず声が出た。

 誰も聞いていない。

 それでも、ちょっと恥ずかしくなって周りを見る。

 誰もいない。

  「……まあ、いいか」

 堤防のほうへ歩いていく。

 風は少し強い。

 海面には細かな波が立っていた。

 港の中を覗く。

 小さな魚がいる。

 何の魚だろう。

 気がつけば足を止めて、水面をじっと見ていた。

  「まだ小さいな〜」

 また独り言が出る。

 しばらく眺めてから顔を上げた。

 遠くの堤防には、釣り人が何人か見える。

 釣れている様子はない。

 それでも竿先を眺めながら、のんびり座っている。

 昔なら、あそこに自分もいた。

  「…………」

 ふと、右手を見る。

 釣り竿を持っていた。

  「…………」

 しばらく竿を見る。

 そして海を見る。

 もう一度、竿を見る。

  「散歩だったよな?」

 もちろん竿は答えない。

 家を出るとき、確かに散歩のつもりだった。

 なのに玄関を出る直前、

 ……まあ、念のため。

 そう思って、いつの間にか竿を一本持ってきていた。

 仕掛けもない。

 エサもない。

 これでは釣りなんてできない。

 それなのに竿だけはある。

  「何の念のためなんだか……」

 自分で自分がおかしくなって、少し笑った。

 でも、悪い気はしなかった。

 堤防の先まで歩いてみる。

 春の風が吹いている。

 波が小さく岸壁に当たり、ちゃぷ、ちゃぷ、と音を立てている。

 船が一隻、ゆっくり港へ戻ってきた。

 その向こうには、ずっと海が続いている。

 何も変わっていないように見える。

 けれど、きっと少しずつ変わっている。

 海も。

 町も。

 自分も。

 手にした竿を肩に乗せた。

  「今日は散歩だからな」

 誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。

 海から、また風が吹いてきた。

 潮の匂いがした。

 それだけで、なんとなく気分がよかった。

 今日は釣りをしない。

 たぶん。

 ただ海を見て、少し歩いて、それから帰る。

 久しぶりに嗅いだ潮の匂いは、なぜだか少し懐かしかった。

 春の海は、いつもの場所で静かに光っていた。





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