窓を開けると、思っていたより暖かい風が入ってきた。
ついこの前まで、朝晩はまだ上着が手放せなかったはずなのに、
季節というものは知らないうちに少しずつ先へ進んでいるらしい。
カーテンがふわりと膨らんで、また戻る。
空は青い。
雲は少しあるけれど、雨の心配はなさそうだ。
「……歩くか」
誰に言うでもなく、そうつぶやいた。
ここしばらく、休みの日になると家で過ごすことが多かった。
別に何か理由があったわけではない。
やらなければならないことがあったわけでもないし、体調が悪かったわけでもない。
ただ、出かけなかった。
それだけだ。
けれど今日は、なんとなく外へ出たくなった。
こんな日に家の中にいるのは、少しもったいない気がした。
玄関でスニーカーを履き、外へ出る。
行き先は決めていない。
近所をぐるっと歩いて帰ってきてもいい。
途中でコンビニに寄って、コーヒーでも買おう。
そんな、本当にただの散歩だった。
……はずなのだが。
住宅地を抜け、いつもの道を歩いているうちに、足は自然と海のほうへ向かっていた。
遠回りになる。
まあ、いいか。
今日は散歩なのだから、近道をする必要もない。
道端には、小さな花が咲いていた。
名前は知らない。
毎年ここに咲いていたのだろうか。
立ち止まって少し眺めてから、また歩き出す。
しばらくすると、風の匂いが変わった。
まだ海は見えない。
それでも分かる。
「海だな」
潮の匂い。
遠くで鳴くカモメの声。
建物の間を抜けてくる風にも、さっきまでとは違う湿り気がある。
この感じは久しぶりだった。
海へ行かなくなった理由があったわけではない。
だから、戻ってきた理由だって必要ないのかもしれない。
行きたくなったから行く。
昔から、それでよかった。
角を曲がると、ようやく海が見えた。
春の海は、思っていたより青かった。
冬の海に残っていた硬さが少し抜けて、陽射しを受けた水面が細かくきらきらと光っている。
「お〜……」
思わず声が出た。
誰も聞いていない。
それでも、ちょっと恥ずかしくなって周りを見る。
誰もいない。
「……まあ、いいか」
堤防のほうへ歩いていく。
風は少し強い。
海面には細かな波が立っていた。
港の中を覗く。
小さな魚がいる。
何の魚だろう。
気がつけば足を止めて、水面をじっと見ていた。
「まだ小さいな〜」
また独り言が出る。
しばらく眺めてから顔を上げた。
遠くの堤防には、釣り人が何人か見える。
釣れている様子はない。
それでも竿先を眺めながら、のんびり座っている。
昔なら、あそこに自分もいた。
「…………」
ふと、右手を見る。
釣り竿を持っていた。
「…………」
しばらく竿を見る。
そして海を見る。
もう一度、竿を見る。
「散歩だったよな?」
もちろん竿は答えない。
家を出るとき、確かに散歩のつもりだった。
なのに玄関を出る直前、
……まあ、念のため。
そう思って、いつの間にか竿を一本持ってきていた。
仕掛けもない。
エサもない。
これでは釣りなんてできない。
それなのに竿だけはある。
「何の念のためなんだか……」
自分で自分がおかしくなって、少し笑った。
でも、悪い気はしなかった。
堤防の先まで歩いてみる。
春の風が吹いている。
波が小さく岸壁に当たり、ちゃぷ、ちゃぷ、と音を立てている。
船が一隻、ゆっくり港へ戻ってきた。
その向こうには、ずっと海が続いている。
何も変わっていないように見える。
けれど、きっと少しずつ変わっている。
海も。
町も。
自分も。
手にした竿を肩に乗せた。
「今日は散歩だからな」
誰に言い訳しているのか、自分でも分からない。
海から、また風が吹いてきた。
潮の匂いがした。
それだけで、なんとなく気分がよかった。
今日は釣りをしない。
たぶん。
ただ海を見て、少し歩いて、それから帰る。
久しぶりに嗅いだ潮の匂いは、なぜだか少し懐かしかった。
春の海は、いつもの場所で静かに光っていた。
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